白河天皇関連エントリー

白河天皇

... 権勢を排除した政治を行いました。 その意思は子の第72代・ 白河天皇 ( しらかわ ) にも引き継がれ、譲位後は上皇となって43年間にわたる院政を行いました。 地図 : 成菩提院陵 ( じょうぼだいいんのみささぎ : 白河天皇陵 )

白河天皇

故意か?失火か?~平重衡の南都焼き討ち

... なんせ、あの、何も思い通りにならないものはなかったという清盛のオヤジかも知れない大権力者の 白河天皇 (2月11日参照>>) も、 「賀茂川の水とサイコロの目と比叡山の僧兵」 と、その名をあげたくらい大寺院の僧兵は思い通りにならない横暴な存在 ...

故意か?失火か?~平重衡の南都焼き討ち

白河天皇成菩提院陵

北向不動尊の前、油小路通を渡ると、白河天皇陵がある。初めて院政を敷いたとされる白河天皇とは 我が意にならぬもの 一つは「加茂川の水」二つには「賽の目」三つは「比叡の山法師」 と自分の意のままにならない事が三つ在ると云ったのだが ...

白河天皇成菩提院陵

衣笠の皇室史跡その2(白河天皇火葬塚)

... (以前に、白河天皇の陵墓「白河天皇成菩提院陵 (伏見区竹田浄菩提院町)」については、少し書いていますが、やや物足りない内容で、白河天皇についても簡単に触れただけでした。 白河帝といえば、二十歳で即位して在位十五年で子の堀河帝に譲位 ...

衣笠の皇室史跡その2(白河天皇火葬塚)

城南宮

洛南、鳥羽にある城南宮。平安京の南方の鎮護として重要視され、白河天皇の御代には、一帯に鳥羽離宮(城南離宮)が営まれ、城南宮は鳥羽離宮の鎮守として信仰を集めた。

城南宮

白河天皇とは?

白河天皇(しらかわ てんのう、天喜元年6月19日 (旧暦) 6月19日(1053年7月7日) - 大治4年7月7日 (旧暦) 7月7日(1129年7月24日))は、第72代の天皇。在位は延久4年12月8日 (旧暦) 12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日 (旧暦) 11月26日(1087年1月5日)。名を貞仁(さだひと)という。
藤原氏 藤原摂家 摂関家と外戚関係の薄い後三条天皇の第一皇子として生まれ、母は藤原氏閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子(? - 1062年)。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。
幼い時は父子ともに冷遇されたが、治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子、同4年、20歳で即位。関白を置いたが、翌5年、上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ摂関家の権勢を弱めることに努める。

白河天皇の詳細

白河天皇に関するニュース


余録:花鳥が呼ぶ春
毎日新聞
鎌倉時代に編まれた説話集「古今著聞集」には、1172(承安2)年5月2日に後白河法皇の御所で行われた大がかりな「鵯合(ひよどりあわ)せ」の記事がある▲ヒヨドリの鳴き声を競う催しだが、この時は法皇の前で貴族らが左右に分かれて持参した鳥を披露した。 ...


神戸新聞

播州清水寺“幻の多宝塔”設計図 関係者遺族が寄贈
神戸新聞
(堀井正純) 多宝塔は平安末期に、白河法皇の寵妃祇園女御が平清盛の武運長久を祈願し建立したとされる。その後、焼失再建され、1913(大正2)年夏の山火事で、全山炎上した際にも焼け落ちた。 23年に再建され、高さ約33メートルの雄姿を人々に示していた ...


語る:五木寛之さん 長編小説『親鸞』を刊行
毎日新聞
特に、後白河法皇が遊女に産ませたという設定の男がストーリーを動かして興味深い。元は六波羅童(ろっぱらわっぱ)(平清盛の親衛隊組織)のリーダーだった彼は、悪意と冷血のかたまりのような人物だ。 彼らと交わりながら、親鸞の考えも深まっていく。 ...

白河天皇に関する質問

白河天皇 白河天皇が院政したってことは、位を譲った子って藤原..

白河天皇が院政したってことは、位を譲った子って藤原氏と無縁っぽいですね? てことは白河天皇の妻は藤原氏じゃないのですか? 当時「天皇の妻は藤原氏」が常識のはずですが。 なぜこのような例外があったのですか?

学習・教育 芸術・文化・歴史  白河天皇が院政したってことは、位を譲った子って藤原..の詳細